御言葉内で、毎年11月11日というのは、神様と義人が出会ったことを感謝する「祝祭の日」であると言われており、この年、私は初めてその日を体験いたしました。
RAPT有料記事221(2017年11月4日)主に出会って救われたことを愛と感謝でお祝いしなさい。〈11月11日の主の祝祭についての御言葉〉
「普段行かないところに行き、普段食べないものを食べなさい。そうすることで、その日のことが記憶から薄れることがなくなるから」と、おっしゃられていました。
私は、存在は気になってはいたけど、行ったことが無かった「高尾山」に行ってみようと思いました。
こちらは、Instagramに載せきれなかった画像です。
私はちゃんとした山登り的な経験は無く、今回が初めての体験だったので、そこも楽しみでした。
こちらの画像にも象徴されるように、なにかこう、「信仰生活とは、山登りのようだ」と思いながら、頂上を目指して歩いていました。
祝祭の日というのは、きちんと行ってきた人には祝福があり、行っていなかった人は裁かれると言われています。
Instagramではオブラートに書きましたが、正直裁かれていると感じるような1日でした。
山登りは、膝に負担がかかるということを知らず、途中から膝に痛みが出て、その痛さの中で歩いていてました。
これは自分の健康の問題もあり、元々肌が弱かった中で全身脱毛を行ってしまった関係もあって、私の肌に合う服がほとんど無いという状態になってしまい、多くの服というのが私の肌に合わず「着ても身体を保温できずに、逆に体温が下がってしまう」のです。(さらには、食べた物など様々な影響によっても、体温が下がってしまうことがあります)
というのがこの日に出てしまって、その影響もあったように思い、早い段階から膝が痛くなりました。
そして山頂についてジャンパーを着ていても、もの凄い寒い状態でした。周りには半ズボンの人もいました。
という中で、冷え切った身体で、膝の痛みを抱えながら、なんとか山を降りたのでした。
振り返ってみると、1年目というのは、「情報拡散と動画作りを熱心にやっていただけ」のような信仰生活であり、本来信仰者がやるべきことを全然できていなかったので、祝福されずに裁かれて当然だったのだと思いました。
この時は分からなかったけど、今なら分かる、自分に足りなかったもの
という部分が、時と共に見えてきて「あぁ、自分はこういう部分が足りないのだ」と、分かってきました。
「自分が子どもの頃、親から厳しくされて、大人になってからその怒られた理由や意図が分かった」ということに似ているのだと思いました。
2020年の祝祭の日のことは、今でも鮮明に、記憶に残っています。
この日の出来事があったからこそ、この日の出来事が強く印象に残っているからこそ、「気付いたこと・変われたこと・変わろうとしていること」というものがあり、自分の成長に大きく繋がっているのだ。と思いました!