今日はなにやら、タトゥーがびっしり入ったお客さんが来店していたそうで、
それでホールの従業員達は、「タトゥーについてどう思うか」という会話を、中で色々としていた。
タトゥーを入れている人を全て敵に回すことになろうとも、私はあえて言わせてもらおう。
「タトゥーは悪である」と。
「いくら理屈をつけても、善になるということはないのだ」と。
その理由は極めて明快で、
基本的に人間という生き物は、タトゥーというものに対して、嫌悪感を抱くようにつくられているからである。
考えてもみよ。
「見て見て~お母さん。学校の帰りにタトゥーを入れてきたの~」
「〇〇ちゃん偉いわ~。ママとっても嬉しい! 今日はお祝いね。ケーキを買ってこなくっちゃ!」
いるか。そんな親が。
もしいるとしたら、両親共にタトゥー愛好家の家庭くらいではないか。
逆に「タトゥーを入れて、親が悲しんだ」というエピソードなら、世の中にごまんとある。
実はこれは、日本に限った話ではない。
タトゥーが割と社会に浸透している諸外国でさえも、自分の子どもがタトゥーを入れてきたら、多くの親は悲しんでいるという。
そればかりか、タトゥーが入っていることで、職業に関する制限が課せられている国も多い。
「職務中はタトゥーを衣服などで隠すのがスマート」という価値観があること自体、
タトゥーはよくないものだと、証明しているようなものである。
ただ、そういった価値観は、不変のものではないから、
社会的な影響によって、いくらかは捻じ曲げることができた。
世界中の有名人達が、こぞってタトゥーを入れ、
タトゥーは、かっこいいもの、ファッション、おしゃれ、アート、生き様、信念 であるかのように、大々的なプロモーションを敷いてきた。
これにより、国によっては、タトゥーを入れる国民の割合が上昇した。
しかし、そこまでやったにもかかわらず「まだ人類の多くはタトゥーを拒否している」という見方も出来る。
彼らのプロモーションが功を奏して、誰も彼もがタトゥーを入れる世界が実現したって、良かったはずなのだから。
聖書には、「善と悪」について、はっきりと書かれてある。
しかし世の中は、何が善で何が悪なのか、曖昧になっている部分が多い。
というより、悪なる支配者層らによって、その価値観が意図的に歪められている。
タトゥーについては、まさにその象徴のようなものである。
それにしても、
「どうして人間という生き物には、タトゥーというものを入れられる "余地" があるのだろう?」
と、疑問に思った。
余地があるということは、"奨励されている" という意味なのだろうか?
しかしそうは思えない。 タトゥーは人間社会において、明らかに良くないものとして、存在しているからである。
だからきっと、こういう事なのではないか と思った。
タトゥーとは、入れたい者は入れる為に存在し、入れたくない者は入れない為に存在しているのだと。
あるいは、入れた後に後悔して除去し、入れていない状態に戻す為に存在しているのだと。痛みを伴いながら。
そう。タトゥーとは、入れた後に、それを消すことができる。
「なぜ入れた後に、消すことが出来る技術まで存在するのだろう?」
それが私には、不思議に思えてならなかった。
こうした、1つ1つの小さな疑問の積み重ねが、
やがて、この世界の "大いなる真実" との出会いになるとは、
この時はまだ、知る由もなかった。
(第16話へ続く)