教会の前を通る度に、ワンちゃんが私に挨拶をしてくれる。
この道を何回か通ったところによれば、どうやら他の人に挨拶することはあまりしておらず、私が通った時には決まって挨拶をしてくれているみたいだ。
実に不思議な犬である。
それで気になって、
その犬がどういう人に挨拶をするのか、観察してみたことがある。
もしかしたら、キリスト教の教会で飼われている犬だけに、犬が良さそうな人を識別して挨拶しているのではないか?とも考えた。
つい最近、「観光地の鹿に対し、暴力を振るう外国人が増えたことによって、鹿がその国の人間なのかどうかを見分けて反撃するようになった」というニュースを見た。
なので、まんざら有り得ない話ではない と思った。
しかし観察をしてみると、どうやらそうでもなさそうだ。
「この人には絶対挨拶するだろう」という、明らかに性格の良さそうな人をスルーしたかと思えば、
その後ろを歩いていた、チンピラみたいな見た目の人には挨拶をしていたりする。
なんだなんだ? 善悪、性別、年齢… なんの法則性も見当たらない…
やはり犬は、ただ気まぐれで挨拶しているだけなのかもしれない。
強いて分かったことと言えば、挨拶をする頻度はそんなに多くはない。10人に1人くらいにしか挨拶しない ということくらいだろうか…
結局、この教会自体は完成し、既に何名かの人が出入りをしていて活動をされているようだが、
私は、足を踏み入れることを躊躇っていた。
というのは、
いざ、「行ってみようか」という段になると、不安や心配も生じてきた。
教会が建ったばかりだからだろうか、ホームページのようなものはまだ無いみたいで、詳しいことについては、何も分からなかった。
しかし、このタイミングで、この場所にキリスト教の教会が出来たのは、きっと偶然ではない という気持ちが勝り、
教会に行こうとしたタイミングで、職場から電話があり、体調不良の人が出たから代わりに出て欲しいと頼まれ、急遽仕事に行くことになったり等、
それで自分は、行くべきなのか、止められているのか 分からなくなり、
教会を訪問してみるかどうかは、少しの間保留としていた。
まるで天使と悪魔が、見えないところで争い合っているみたいだった。
聖句についてネットで調べ物をしている時に、とある記事が目に留まった。
そのサイトの管理人が、キリスト教に出会った経緯を「証」していた記事だった。
自分はかつて悪いことばかりしていて、国際犯罪で海外の刑務所に収監されることになってしまいました。何もやることがなく、刑務所内にあった聖書をパラパラと読んでいたら、
エゼキエル書:33章11節
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない」という聖句を見て、感動し、大きな感銘を受けました!それで悪の道から完全に足を洗おうと決意し、出所後はキリスト教の教会で働くようになったのです。
私はこちらの記事を読んだ時、はっとした。
そうだ。神様は、人を見た目で判断されない方ではないか。
それに、世の中的にどんなに良い人であろうとも、神様に立ち返らないのであれば神様とは無関係であるが、悪い人であったとしても、悔い改めて神様に立ち返るならば、その人は神を知り聖書を読むのだ。
もしかしたら、ワンちゃんが挨拶をした見た目がチンピラ風の人も、このブログの管理人さんのように、悔い改め立ち返る可能性のある人だから、挨拶をしたのかもしれない。
そして、今まさに、聖書を読んでいるこの私も…
私は、自分の直感を、信じてみようと思った。
やらずに後悔するなら、やって後悔しよう。
そして私は、教会の扉の前に立った。
この場合、入ってもいいのだろうか?と思いつつも、ノックをしてから、ドアノブに手をかける。
静寂の中に、扉を開ける音が鳴り響く。 すると中には、お祈りを捧げている女性の姿が見えた。
建物内は、静謐で、神霊で、緊張感のある、聖なる空気に包まれていた。
私は思わず尻込みして、また日を改めて出直した方がいいだろうか思い、踵を返そうとしたその時、
「お待ちください!」という声が聞こえた。
(第23話へ続く)