誰も彼もが、失っている。
今も、この瞬間も。
"生命" という残り時間を
やがて訪れる、終わりの時に向かって。
しかしそれは、始まりの瞬間でもある。
死んだ後という、「新たなる世界」の始まり。
人が死んだ後どうなるのか、人間には分からない。
だが、人が死んだ後どうなるのかを、唯一、知っている方が存在する。
それは、人間の創造主だ。
この世界を、人間を、創った存在。
その方が、答えを持っている。 全てを知っている。
どうして私達は、言われてみればこんな当たり前のようなことに、気付かなかったのだろう?
それは私達の "敵" が、この答えを覆い隠す為に、嘘を幾重にも塗り固め、その上、ありとあらゆる洗脳を施してきたからである。
私は、ついに「あの方」にお会いさせて頂いた。
「あの方」こそ、本当に神から遣わされた人なのかを確信したかった為に、私は聖書についての疑問、聖句の解釈、この世の中の謎、死んだ後の霊界について… あらゆる質問を携えてきた。
だがその方は、全ての質問に対し、理路整然と説明してくれた。
さらにその上、
私の人生の全てを見ていないと分からないであろうこと、私がここ最近行ったこと、私の考えていることも、その方は知っていた。
私が信じやすくなるようにと、「天の霊が、私のことを、その方に伝えて教えている」としか思えなかった。
それをもって、この方こそ、神様から遣わされた人だと確信した。
鳩は、伝書鳩に利用されるほどの強い帰巣本能があり、
遥か1,000キロ離れた見知らぬ場所からでも、自分の巣に戻ってくると言う。
我々人間も、帰ろうではないか。
私達の帰るべき場所に。
神のもとに。
たとえ人類が、神から1,000キロ離れた場所にいようとも、10,000キロ離れた場所にいようとも、
帰ろうという意志があるならば、神様はいつでも迎え入れてくださる。
実際、神から離れて生きてみて、
この世の中は、自分の人生は、どうなっているだろうか?
キリストの死後、この2,000年の大半は、戦いと争いの歴史だった。
夢や希望なんて抱いている余裕も無い。ただ命を守るのに精いっぱいの人生だ。
ようやく世界は平和を取り戻し、文明が急速に発展し、
その中で、恵まれた国においては、自分の生きたいように生きることが可能となった。
だが、この奇跡のような数十年でさえ、人間は心から満たされて生きることが出来ていない。
もう、これが答えではないか?
これ以上何をしたら、
神という存在を抜きに、人間が心から満たされて生きられると言うのだろう?
もう、帰ろう。
私達が帰るべき場所に。
後ろを振り返れば、
どれだけ人類が背き、あなた自身もこれまでの人生、知らず知らず背き続けて生きてきても、
それでも尚、待って、迎え入れてくださる、神の姿がある。
それでも、行きたい方に進むか、あるいは、振り返り、神のもとに立ち返るか
それは、その人の自由意志だ。
結局、人生とは何かを追い求めると、この聖句に辿り着くのだと思う。 この場所が、人間の頭で考え得る、人生という答えの終着点と始まり
イザヤ書:55章6節
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ。近くにいますうちに。
愛や恋や学問や仕事や趣味など、日々せわしなく生きたのも束の間、
ある時、自分にも、死期が迫っていることに気付く。
ラストダンス、最後の晩餐、
人生の全てを振り返り、最後の一呼吸、最後の心臓の鼓動、最後のまばたき、最後の審判…
その時は、来る。
答えのないままに。恐怖と絶望と暗闇を抱いたまま、避けられない一歩を踏み出す。 未知の世界へと。
人間は、死を制御できない。
死んだ後の運命は、全て人間の創造主の手に委ねられる。
だから、
求めよ。創造主の存在を。
誰もが平等に、やがて確実に訪れる、
終わりの時 ― タイム・リミット ― までに。
さぁ、行こう。 愛と真実の世界へ。照らされた光の向こう側へ。
神様から遣わされた方と共に。
あなたはこの目で確かに見た。
あなたはこの世界で、本当の愛と、真実を知った。
だから後は、そのまま進めばいい。
心が思うままに、心が感じるままに。
私達人間は、不幸になる為なんかじゃなく、
幸福になる為に、生まれてきたのだから。
(完)