いざ善いことをしようと思っても、とっさに体が動かなかったりする。
そうか、普段からの「自分の心」が行動に出るのだ、と気づきました。
対「人」じゃないときは、そういう瞬発力はあまり求められずに、善いことを行うことができました。
私は自営業の関係で、よく中古書店を巡っていたので、ちゃんと本棚に収まっていない曲がっている本などを直したりとか、カバーの背表紙が飛び出しているのを直したり(その状態で放置していると、本を取ろうとして指をひっかけて、カバーの背がやぶれてしまう。ということがよくある)等々、
誰が見ている訳でもなく、そういう行いをしていたのは、
もしかしたら「何か」が私を見ているかもしれない、だとすれば、その行動を見たことによって、つまり私のこういう行いによって、自分に幸福がもたらされるかもしれない。
また、「見えないところの努力も報われる、見えないところも怠らない美」みたいな考えというのは、
日本人の間ではそれなりに浸透している考えのように思い、特に何らかのプロフェッショナルと呼ばれる人達の間では、さらに浸透しているような考えであると思います。
自分がそういう生き方に変わって来たある日、このような内容のニュースを見ました。
「踏切内の高齢者を助けようとした、女性の方がお亡くなりになる」
これを見て私は「この女性の方は、きっととても良い人だったのだろう」と思いました。私もいざ、善いことをして生きようと頭の中で思ってみても、「体は咄嗟には反応しないものだ」ということを学んでいたからでした。
なのでこの女性の勇気ある行動というのは、きっとこれまでもそのように生きてこられたからなのだろうという想いが、自分の頭に過りました。
もし自分がその場にいたら、そのような勇気ある行動を、咄嗟にとれた自信は全くありません。それによって、自分という人間の小ささが量られたような気がしました。
それと同時に、なにかこう「自分がその場にすら居合わせないような、その資格すら無いから、そのような事も起きない感じ」と言いますか、
「自分に起きる出来事は、自分という枠を超えて起こったりはしない」
そういう不思議な感覚も、おぼろげながら感じました。