この世界で起こることは、本当にたまたま、全て「偶然」によって起こったのだろうか?と、思った時がありました。
世の中にも、そういう現象を表す言葉がいくつも存在しています。
「因果応報」「悪い予感が的中する」「身から出た錆」「自業自得」「自分で蒔いた種」
私も、結果というものは「自分が引き寄せているもの」という感覚がありました。
その当時は、ニコニコ生放送・ツイキャスといった「配信サイト」が流行していて、色々なサイトで色々な人が「生放送」をしていて、私はそれをよく見ていました。
色々な人の放送を見て、いつか痛い目を見るんじゃないかという感じの人が、想像を超えた形で痛い目に遭っていたり、どう見ても性根が悪い人が、ある時に呪われてるんじゃないかというくらい、次々と不幸に見舞われたり、
ということを何度も見ている内に、「本当に悪いことをしていたら、悪いことが返ってきやすい」という法則性は、確かにあるように思いました。
それ以外にも、「全ての結果はアトランダムによって起こっているのではない」と感じたのは、「ギャンブル」でした。
私自身は、ギャンブル全般に興味あり、パチンコ・麻雀はさわり程度で、特に競馬に傾倒していました。
(※ 信仰者においてギャンブルは罪ですが、信仰前に知らずに犯していた罪に関して神様は許してくださいます。そして私の証は、競馬というキーワードなしには説明できないところが多々あります為、これからも競馬という言葉を何度も使うことになりますが、どうかご了承ください。)
ギャンブルを題材にした作品(漫画、書籍、映画等)を通しても、「運」の正体のようなものは題材にされることが多く、
運にまつわる描写の中で、「運が悪い時は面白いくらい相手の当たり牌を引く」「やけくそでやった競馬の最終レースは大抵当たらない」「まだそぐわない奴の手から金は逃げていく」等々
結果は完全にアトランダムなのではなく、何かしらの法則性は働いているという話は、確かにギャンブラーを納得させるものがあります。自分自身のギャンブル経験からもそう思いました。
私は競馬という世界そのものが好きで、競馬のゲームや漫画も好きで、牧場に馬を見に行ったこともありました。しかしそれ以上に「競馬の本質を見極め、競馬で勝ちたい」という想いが強かったです。
しかし私の競馬人生というのは、おかしいだろと思うくらいに、あと一歩のところで幾度も大的中を逃し、運に見放されていました。
それこそ、世の中の結果がすべてアトランダムで決まっているのだとしたら、私にも1回くらい大的中が来ていてもいいはずだ、と思うには十分すぎるほど、面白いくらい私の手から、大的中が寸前で逃げて行った。そんな競馬人生でした。
なのである時、「もしかしたら、私が悉く大的中から見放されているのは、大して善いことを行わず、むしろ悪いことばかり行ってきた人生だからなのか?」「善いことをすれば、私にも善い結果が返ってくるのではないか」と思い、
よこしまな理由からではありますが、「これからは善いことをしよう、善いことを心がけよう!」と思い、結果として私の人生は、少し善良な生き方へと傾いていくことになりました。