競馬に勝つ為の研究 → 運というものの考察 から転じて、
「そもそもこの世界は何故存在しているのか?」という疑問に辿り着きました。
このことについては、多くの方が1度は考えたことがあるのかもしれません。私もこれまで1度くらいは思ったことがあるような気がします。とはいえ、そこまで深く考えることもなく、ここまでを生きてきました。
しかし私は、競馬で勝つという目的から、この部分まで深く考察するようになっていったのでした。
「善いことをしたら、善い結果が返ってくるんじゃないか」と思いました。確かに、自然と人に善いことを行えていた時というのは、本当に競馬の調子も良くて、これは本当なんじゃないか、と思いました。
だけど、なにかそれが、長続きするような感じがないと言いますか、狙って行ったら、離れていってしまうような…そういう部分もあるというのは、感じていました。
運というものの正体を考察していった時に、結局は「そもそもこの世界は何故存在しているのか?」という疑問に辿り着くのかもしれません。
最初は、「仮想現実」という可能性を考えました。
人間が作ったゲームの世界のように、この世界を「造った存在」がいて、その中の住人なのではないか、と。
あるいは、「天国と地獄」「死んだら霊になる」という、一般的に言われているような話も、ある一定以上は信じていました。
というのもやはり「因果応報」は確かにあると思ったからです。それがどこから来ているのか?と思った時に、
当時の私の想像では、死んだ人というのは、この世界を見ることができて、なにかこうボンバーマンの「みぞボン」のように、わずかながらこの世界に影響を与えることができる。
死後の世界の霊が見て「この人は許せない」と思うような人に対して、みぞボンのようにこの地に働きかけ、それで本当に悪い人に悪いことが起きているのではないか?そういう可能性もあるのでは、と思いました。
あるいは、この世界というのは、大いなる世界の中の1つであり、死んだら、全く想像もつかない別な世界に移動するのではないか?という考え、等々
こういった可能性を考えながら、生きていたようなところがありました。
一般的には「輪廻転生」という考え方もあり、これを多くの人が、漠然と信じているようなところがあるように思いますが、当時の私としては、あまりこのことについては考えたことがありませんでした。
今にして思えば、もし輪廻転生があるならば、深く考える必要がなくなるから、考えても意味がない。と思ったからなのかもしれません。
その考えを受け入れてしまったら、私は何のために、競馬で当てようと労苦しているのか?という話となってしまい、自己矛盾のようなものを、漠然と理解していたからなのかもしれない。
輪廻転生を受け入れることは、究極的には、辛かったら死んでもいい、次の人生にかけよう。ということとなり、でも「輪廻転生が存在しなかったらどうするのか?」という恐怖がある。
だから、私の本能が、それを受け入れることを拒絶したのかもしれません。
ただ「この世の中が全てではない」とは思っていました。
例えば、自分の部屋に1人でいる時。誰も見ていないのだから、何をしたっていい。自分を100%解放しても良い訳です。
だけどどういう訳か、100%解放できる自分がいなかったのです。
「見られているかもしれない」その可能性は十分にあり得ることだな、と思いました。