それから私は、一度読み終えた聖書を再び手に取り、
「聖書」を読むことが、日課となった。
例えば、腕に覚えるのある武道家が、"本物" と出会い、
成す術もなくコテンパンにやられ、あっけなく地面に倒され、天を呆然と見上げた…
あまりの格の違いから、悔しさ、情けなさ、やるせなさ、嘆き、憤り、悲しみ… こういった感情を通り越して「清々しさ」という感情が先立ったほどで、
その武道家は「世界の広さ」を知った。
今の私は、そんな心境に似ていると思った。
しばらく読書に夢中で、家に籠るような生活をしていた為に、色々と買い物が溜まっていた。
その買い物に出掛けた際に、行きつけの大型書店にも立ち寄った。
「やぁ、つーさん、お久しぶりだね」
「えぇ、親父さん、ご無沙汰してます」
お店に入ると、書店の親父さんがカウンターから私の姿を目に留め、挨拶をしてくれた。
私が会社をやめ、こっちに帰省した時にはいつの間にか建っていた大型書店で、新品本と中古本を、両方豊富に取り扱っている、おそらく他県ではあまり無いようなタイプの書店だ。
私は10年前からここの書店に足繁く通うようになり、すぐに常連客として認知されるようになった。
しかも書店の親父さんとは、飲み屋街でばったり会うことも、しばしばあり、
お互い飲みの約束をするでもなく、ばったりお店で会った時に、一杯やりながら本について語り合ったりする。そういう間柄となっていた。
「今日はどんな本を探してるんだい?」
「ええと、聖書に関連する本って置いてましたっけ?」
「聖書かい?これまた凄いところに目をつけたものだね。キリスト教徒にでもなったのかい?」
「そういう訳ではないんですけど、あるブログを見たことをきっかけに、書物として読み始めまして…」
「この前は、黒人のリズム感の秘密と来て、その前は確かナショナリズム論の本と来て、今度は聖書とはね…」
「大抵は、文学なら文学、政治経済なら政治経済。ぜいぜい数個のジャンルの中から、自分が興味のある本を選ぶものさ。つーさんほど、面白い本の読み方をする人は、そうはいないよ」 にっこりと、笑みを浮かべながら言った。
「色んな世界を知るのが好きなんですよ」 私も、はつらつとした笑顔で答えた。
「私もこれまで色んな本を読んできましたけど、聖書を読んだ時は、なんというか、腰を抜かしてしまいそうになりましてね。それで、聖書の解説本を何冊か読んでみたいなと思いまして… あ、聖書はほんと凄いですから。親父さんも、是非一度は、読んでみてくださいよ」
「つーさんがそう言うなら、そうなんだろうね。でも、私はもう目が霞んじまってるものだから…分厚い本は苦手でね。 今度飲み屋で会った時にでも、読んだ感想を聞かせておくれよ」
「えぇ、是非」
結局、気になった聖書の解説本3冊と、人生をかけてオオカミの写真を撮り続けた写真家の本を購入し、お店を後にした。
そして帰り道の中で、ふと思った。
「あぁ、そうか。私もこの年だから、そろそろ目が悪くなって本が読みにくくなってもおかしくない歳なのに、未だに若い時と変わらずに本を読むことができるって、有難いことなんだよな」と。
思えば、この頃の自分は、
物事を見る視点が変わった気がする。
これまでの50年間は、なんというか、全てのことが、当たり前にあると思い、それが「当たり前」だと思って生きて来た。
でも、そうじゃないんだ。 ということに、気付かされた。
世界も、命も、自然も、社会も、平和も、健康も、日常も、今日という一日も、明日という未来も…
"享受している" ものだ。
「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ」
ドストエフスキーが言った言葉の意味が、本当の意味で、分かってきたような気がする。
この世界には、筆舌に尽くしがたい、劣悪な環境の「刑務所」が、いくつも存在している。
「人間に与えられている自由な行為」の大部分を奪われ、その中で毎日を生き、
看守に逆らおうものなら、場合によっては生涯地獄を見ることになる。
ある刑務所は、外界から完全に閉ざされ、脱獄が成功した事例も無く、
独房は三重の鉄扉で囲まれ、刑務所の周りには五重の鉄柵が設置されている。
連れてこられた受刑者は、ここが人生の終着点であることを、悟ると言う。
私達は、誰かと話すことも、立つことも座ることも、行きたいところに行くことも、自由に出来る。
今日食べたいものを自由に選んで食べられ、満腹して満足し、安心して眠れる。
これらは決して、当たり前のことではない。
世界の広さを知ることと、幸福を知ることは、同じ意味なのかもしれない…
今のように、見識を広め、考えを深めていった先に、
なにか人生の答えのようなものに、出会えるかもしれない。
漠然と、そんな気がしたのだ。
(第13話へ続く)