神様に従って生きるという道を歩む為には、「罪を捨てる」ということが必要であり、
その罪がなかなか捨てられず、人によってはそれが辛いからと、神様の道から離れてしまう方も、いらっしゃるのではないかと思われます。
※ ひとくちに「罪」と言っても多岐にわたり、大まかに言えば「物理的な罪」と「性格的な罪」に大別できると思います。当記事では、「物理的な罪」について。御言葉と出会い、今までの生活上で行ってしまっていた神様の前に悪とされる習慣について、お話させて頂ければと思います。
罪を捨てるということは、人間にとって苦しいことであり、その罪大きいほど・根深いほど、捨てる時の決断は苦しいものとなります。
これまで善良に生きてこられた方は、それだけその人は神様の目に良く映っており、罪が少ない分だけ、捨てるのも難しくない。それは御言葉に出会って、今まで生きてきた通りに報われるという、祝福のようなものであると思います。
だからといって、悪い生き方をしてきた人を差別される神様ではなく、悔い改めれば受け入れてくださる愛の方であり、
そして、捨てる罪が大きければ大きいほど、その人がその罪を捨てる難しさを分かっていらっしゃるので、その罪を捨てた時、神様も喜ばれるに違いありません!
とはいえ、「本当にその大きな罪を捨てられるのか」ということが問題です。
大きな罪を捨てたら、それだけ大きな報いもあるというのは真理でありますが、それがみんな出来れば、誰も苦労しない。
それを行う当事者にとっては、一世一代の決断のようなものであり、捨てられなくて諦めたという人も多いのではないかと思います。
そこで、私自身の経験を通して「罪は誰でも捨てられる」ということを、証したいと思いました。
まずは私の罪についてと、その罪を実際に捨てた時のお話というのは、こちらの記事の方で詳しく書かせていただきました。
[2020年6月頃] 私の人生の全てとも言える「LGBT」の罪を捨てた時のお話
私自身も、これまで人生の全てを捧げてきたと言っても過言ではない「LGBT」を捨てることは、本当に本当に、大きな葛藤がありました。
それだけの罪を捨てることを決断できた、大きな要因となったのは、
「神様なら、これが塵あくただと思えるようなものを、私に与えてくださるに違いない」と思うことができた。という理由が大きかったのです。
この事を信じられたら、どんな罪でも捨てられると思いませんでしょうか?
つまり、「神を信じる者は、どんな罪でも捨てられる」ということなのです!
イエス様は、聖書の中でこう仰られました。
ヨハネによる福音書:9章2~4節
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」
神の業が現れる これはもしかして、自分の人生においても、そうなのではないかと思いました。
一体誰が、性と出会った時から心を奪われ、そのことを夢見て生き、LGBTについて親にもカミングアウトし、全身脱毛に何百万とかけて、針脱毛の痛みに何年も耐え続け、整形にも何百万とかけ、理想の自分にどこまでも近づいていって、30歳を過ぎても20代に見える見た目も奇跡的に保てていた夢半ばで、
LGBTを捨てられますでしょうか?
ここまで捧げてきた自分の人生を全否定し、希望も、夢も、心も、思い出も、努力も、積み上げてきたものも全部、捨てることができますでしょうか?
ここまで深入りしている人が、神様を信じずして、どうやってLGBTをやめることができますでしょうか?
すなわちこれは「神の業が現れた」と、言えるのではないでしょうか。
御言葉(朝の祈り会)の中では、「この御言葉に出会って受け入れた人というのは、その人がたまたま見つけて受け入れた訳ではないのです。神様が招いていない人というのは、この御言葉を聞いても、受け入れることはありません。神様が、あなたをこの御言葉に呼ばれたのです」と、仰られています。
御言葉と出会って受け入れた人というのは、御言葉に招かれた人であり、御言葉に招かれている以上は、あなたはその罪を捨てられる可能性があるから、御言葉に呼ばれているのです。
そうでなければ、「御言葉に招き、最初から捨てられないと分かっている罪を目の前に差し出し、案の定その人は罪を捨てられずに、滅んでいった」というおかしな話となってしまうからです。
なので、御言葉に招かれている以上は、その人は、その罪を捨てられるのです。
この人はこの罪を捨てられらないだろうと思う人は、神様も最初からその人を、御言葉に呼んではいないのです。
神様は、私のような罪深い者でも、どこまでも寛容な心と忍耐力をもって導いてくださいました。
そして私自身も、その罪を捨てることができました。
どうか1人でも多くの方が、果てしなく深い慈しみと愛をもって迎えてくださる神様の元に導かれ、罪を捨てられ、神様に立ち返ることができますことを、心よりお祈りいたします。