私は元々、活発で口数が多く、激しやすい性格の子どもでした。
しかし、半分いじめのような体験をした影響によって、口数が少なくなり、根暗な性格へと変わっていきました。
この世界に霊的な悪魔(サタン)は確かに存在している。人は、サタンが入っているか入っていないかによって、がらりと変わる
それによって、「一見すると大人しそうな人に見えるけど、本質的には激しやすいタイプ」という、ややこしいパーソナリティが形成されていったように思います。
インターネットには、「ネット弁慶」という言葉がありますが、私はまさにその典型的なタイプでした。
ネット弁慶とは、インターネットの中のみで強気な人の事である。「内弁慶」の改変
ネット弁慶とは (ネットベンケイとは)
ネットを活用するにあたってよく言われることは、
「スルースキルや、煽り耐性が高くないとやっていけない」というもので、
まさに私は「煽り耐性0」のような人間でした。
私が学生の頃、ちょうどインターネット掲示板が大流行するようになり、自分も携帯電話やパソコンを持つような時期でした。
そこで私の「煽り耐性0」という性質が遺憾なく発揮され、インターネットに出会った当初は、少しでも自分が気に入らないことに対して反応せずにはいられず、悪い意味でインターネット掲示板にのめり込んで行きました。
しかし、「こんなことをいつまでも続けていては精神的にまいってしまう」と省み、スルースキルを身に着け、こういった底なし沼のような日常からは「卒業」できることとなりました。
それから時代は進んで、ニコニコ生放送といった「配信サイト」が流行するようになり、これは面白いと思い、こちらに傾倒するようになって行きました。
もちろん平和に放送しているところもたくさんありましたが、本質的には「悪口の海」みたいな世界であり、放送によっては「全部がアンチコメント」みたいなところもありました。
しばらくは視聴専門でしたが、いつしか自分自身も放送するようになっていきました。
どうすれば平和に放送できるか?ある程度学んで理解していたこと、
さらに私自身が、元々「アンチコメントを書いている側」だったので、このアンチコメントはどういう目的と心理で書いているのか、大体分かるという強みがありました。
分かっていたこととは言え、悪口が来ることは避けられず、その度に感情に流されないように、放送に平和が保たれるよう努めました。
それによって、「煽り耐性」や「スルースキル」はかなり磨かれていったように思い、私がインターネットに出会った当初から考えると、煽り耐性は各段に向上したように思いました!
しかしその後、私は実生活の方において「車を運転する」必要に迫られ、車の運転をするようになったのですが、
ネット上で磨かれた煽り耐性と、車の運転における煽り耐性とは、また別にあるようで、
私は少しでも気に入らない運転をしている人に対して、強い「憤り」や「怒り」を覚えてしまい、良くない運転をしてしまうこともしばしばありました。
しかしこんな運転をしていたら、いつか事故を起こしてしまうかもしれない、相手の運転手が恐い人でトラブルに巻き込まれてしまうかもしれない。
「こんな運転をしていてはダメだ」と省み、何が起きても心流されない、もっと神霊に運転できるように、と心がけました。
それによって、車の運転におけるスルースキルも向上していき、概ね何かが起きても感情を制して、運転できるようになっていきました!
それだけでも、自分にとっては大きな進歩でありましたが、なにか「限界」のようなものは感じていました。
概ね感情を制して運転できるようになったとはいえ、それが一生続くとも限らない。そもそもこの厄介な性格を抱えたまま、これから先も一生運転し続けていくのだろうか、と。
その後、私は「神様」の存在を知り、信仰を持ってからは、どこまでも神霊に運転することが出来るようになりました!
マナーの悪い運転をしている人を見たとして、以前は憤りや怒りを感じるような場面であったとしても、
現在では「今の運転手が行っている運転の通りに報われますように」と、神様にお祈りを捧げているので、常に心の平安が保たれるようになりました。
それに不思議なことに、信仰を持ってからの方が、そのようなドライバーに出会うこと自体も、少なくなっていったように思います。
今から振り返ってみると、車の運転とは、自分の感情を制することへの非常に良いトレーニングとなっていたように思い、
まさに私は、もっと神霊に運転したいと思いながら車を運転することによって、実際に感情を制することができる自分へと、成長することができました!
つまり「元々自分は激しやすい性格だから~」とか、それは関係がない。ということです。
直そうと思えば、直せるものなのです!
今では、ちょっとやそっとじゃ感情的になることも無くなり、もし何か悪いことや理不尽なことが目の前にあれば、それを神様にお祈りする
本当に楽になったな。と思います。
実際に、激しやすい性格のままでいると、この世の中を生きるのは本当に苦しいことです。
何故なら、自分自身が他人から嫌われやすいばかりか、
今の世の中が悪だらけ不条理だらけであり、それに人よりも強く反応してしまうので、我慢するのも大変だし、戦っても報われないことが多いから、心身共に疲れ果ててしまいます。
逆に神霊に生きられることは、本当に楽です。
そういう「激しやすい性格」を経験してきた者だからこそ、それがよく分かります。
だからと言って、「この世の悪を一切見て見ぬフリをして、無視を決め込んでいる」という訳ではなく、
それは当ブログの内容を見ていただければ、お分かりの通りであります。
「感情に溺れることなく、正しい認識感を持って、この世の悪に相対できるようになった」ということなのです。
この事を、次回の記事で証できればと思っています。