競馬と聞くと、信仰者の方からはあまりいいイメージを持たれないと思いますが、
ここで少し競馬に対するイメージが変わるお話をさせていただければと思います。
一般的な競馬の予想方法としては、〇〇という馬が強いから、〇〇という強力な騎手が乗っているから。あるいは表面的なデータを参照したり、オカルト的な予想方法もたくさんあったり、あらゆる人が「必勝法」という名のあらゆる競馬予想方法を編み出し、著書などを発売している。
そういった、競馬の世界になんとなく形成された「競馬常識」のようなものに従って、各々が予想を完結させています。
私はどうすれば競馬で勝てるのだろうか?と、中古書店で競馬必勝本を色々と読んでみて「これだ」と思うものを実践し、いまいちしっくり来ないな…という日々を過ごしていました。
そんな中、ある一人の競馬予想家の著書を見て、衝撃を受けました。
その予想方法の中で、最も衝撃的だったのは「馬は生き物である」という前提で予想をしていたことでした。
いえ、もちろん全ての競馬ファンは、馬は生き物であるという "認識" は持っているのです。けれど、競馬において肝心要の「馬」という生物について、多くの競馬ファンがほとんど何も知らないまま予想をしている という事実が、衝撃的だったのです。
競馬で走っているのは馬なのだから、その「馬」について知らなければ、どうして未来を正確に予想できるだろう?
という、言われてみれば当たり前のことなのですが、その誰も気付いていない「当たり前」に、著者は悉く気付いていたのです。
その著者は今井雅宏氏と言い、彼は類まれなる「洞察力」と「分析力」を持ち、
例えば競馬新聞を広げて、「これらの情報から、どんなことが言えるか?」という質問をした時に、普通の人が2、3個くらい発見できるようなところを、100個も200個も発見してしまうような方でした。
馬の心身構造を正しく理解しているのみならず、収集したデータも正しく読み、そこに隠れている事実を浮かび上がらせる分析力にも長け、誰も気付かない部分を正しく発見し、その事実を基に、また新たなる事実を発見する。
まさに競馬の本質を丸裸にしているようでした。
競馬というのも、突き詰めれば「生物学」と「現象学(事実やデータから、そこに隠れている別の事実や本質を発見するという意味において)」という "学問" なのだと思いました。
そして私は、その学問を学んでいたことが、今の自分に大きく活かされている と度々感じることがあります。
Twitter、YouTube、ブログなどで情報発信する際も、
「ある事実やデータや条件から、すなわちこんなことが言えるんじゃないか」 競馬という名の学問を学んでいなければ、きっと気付かなかったこと、発信できなかったことも、多々あったように思います。
そしてもう1つは、これぞ「本物だ」というものに触れていた経験によって、偽物の見分けがつきやすくなった。というところも大きかったように思います。
この世の中は嘘だらけなのに、「嘘だらけだ」ということを分からないまま生きている方も、少なくはありません。
そうなってしまう理由は様々あるかと思いますが、1つは「本物を知らない故に、比較が出来ない」というのも、あるのかもしれません。
芸術の世界では、贋作(がんさく)と呼ばれる、オリジナル作品に模した偽物の作品が、たくさん出回っていると言われています。
「贋作しか見ていない故に、贋作が贋作だと分からない」贋作を本物だと洗脳されていたら、むしろ本物と対峙した時に、それを偽物だと思ってしまう。 ということが、起きてしまいます。
とある麻雀漫画の中に、「怠惰を求めて勤勉に行き着く」という言葉があります。
この台詞の背景としては、ギャンブラーというのは楽して稼ごうという人達なのに、その割には麻雀を熱心に練習し、研究している。 その姿を不思議に思った人から指摘され、出て来た言葉であります。
しかしながら、怠惰を求めて、勤勉に行き着かないギャンブラーも多いというのが現実です。
それはおそらく、本当に怠惰を求めていたからであり、
勤勉に行き着いたギャンブラーというのは、結局のところ「勤勉のようなもの」を求めていたのではないか。と思いました。
つまり、「勝ちたい」「稼ぎたい」「この世界で生き残りたい」
そういった、ある種の "情熱" のようなものであります。
私ももしかしたら「勝ちたい」といった、ある種の情熱のようなものがあったからこそ、本物との出会いが生まれ、
それが偽物を見分ける力となって、この世の中の嘘を、少しずつ見分けていくことができたのかもしれません。
だからこそ、何事も情熱を持って熱心に行う。
ギャンブルでさえも、熱心に行っていたならば、それが何らかの形となって、後々の自分の人生に活かされていく。
そういう意味においては、
なにか「情熱」こそが、ある意味においての「生命」とも呼べるのかもしれない。
もし人間が情熱を失ってしまったら、ただ何となく無為に日々を過ごし、死を迎えるだけの存在となってしまう。本当はそうではないのに。
何かに熱心になること。それが真の意味での「生きる」ということであり、
そう生きてこそ、そこから "世界" は広がっていく。その大いなる可能性を秘めているのだ。と思いました!
全ての人間は、生まれてから死を迎えるまで、この世界という中の住人である。ならば人間は「世界」が望んでいる生き方をするべきだ
人は、何故生まれ、この世界が存在し、死んだ後はどうなるのか分からない以上、「神様」という存在を考える価値は十分過ぎるほどに有る