以前の自分と比べて、善い生き方が出来るようになってからは、
「これまでの人生悪いことばかりしてきた。いつかその時の自分が住んでいた街に何らかの貢献をして、償いができれば」そういう考えを自然と持つようになり、その根源というのは、今にして思えば、「罪悪感」というものだったのかな、と思いました。
よくドラマや映画などの作品なんかでも、自分の犯した罪によって、自分自身が蝕まれていき、それに耐えきれなくなって、懺悔をし、罪を償うことによって、楽になる。という描写を見たことがあります。
私自身、このことを頭で意識していた訳ではなかったのですが、それに近い状態にあったのだと思います。
私はある日、自分が通っていた専門学校の街を、久しぶりに訪れました。
その頃の自分というのは、本当によくないことばかりしていた時期でした。家からは遠く離れ滅多に来れない場所であるため、再びこの地を訪れた際には、ある事を行いたいと思っていました。
それは「迷惑を掛けた地に立って、その場所で謝罪をしたい」というものでした。
ちょうど夜で、近くに公園があって、周りには誰もいない感じでした。そこで土下座をして、「あの時は本当にすいませんでした」と懺悔しました。
すると、心が本当に楽になったのを覚えています。
このように文章を見ると、頭がおかしい人のように思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、もしかしたら、私のようなことを密かに行ったことがあるという方も、いらっしゃるのではないでしょうか?
例えば人は、見えない何かに向かって「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝ったりすることがあると思います。大なり小なり、人は自然とそのような行動をしています。
それが肥大して、例えば大きな罪を犯して、その過去を今でも引きずっている人や、あるいは犯罪を犯して警察から逃げている逃亡犯という状態になりますと、
おそらくその人は、街中にいる人達を見て、「後ろめたいことが無い人っていいなぁ」という気持ちになっていると思います。
何気ない友達との会話で笑い合ったり、美味しい食事を楽しんだり、美しい自然を見て喜んだり…
後ろめたいことがある人というのは、そういったものが、一切なくなっている。
普通のことを、普通に喜んだり楽しんだりしている人達を見て、まるで自分だけが別世界にいるような感覚…私も、その気持ちは分かります。
後ろめたいことがある人から見たら、「後ろめたいことが無い」ということが、羨ましい。
悪い道へと入り、「何でもない平穏な日常」という有難みに気づいた人や、罪悪感による苦しみから解放されたい人が、
心の解放を求め、日々、何人もの人が、良い道へと戻って行くのだと思いました。