前回記事より、
突然裁きとしか思えないようなことが、次々と自分の身に降りかかり、「今が決断する時なのか…?」と思いました。
当時の私は、ちょうどYouTubeチャンネルの次に作成する動画の中で「同性愛」について言及する箇所がありました。
#11 上級国民達の行動原理① 彼らは全て「聖書」の教えと真逆のことをしているだけでした
なので私は「自分がLGBTのままなのに、LGBTのことを言うのはどうなのだろうか」と、危惧していたこところがありました。
それでこのタイミングで、裁きとしか思えないことが起こったということで、「LGBTの罪を捨てなさい」という事のようにしか思えませんでした。
これまで私はこの事について、
ここまで人生を捧げてきたLGBTを捨てることなんて無理だろうと。私はLGBTを捨てられず、生きたいように生きるしかなく、最初から滅ぼされる側の人間だったのかもしれない。
あるいは、御言葉(朝の祈り会)で神様は3年は見るとおっしゃられている。なので、例えば最初の2年は私がやりたいことを行わせて頂き、それからLGBTを捨てることができたら、なんとかどこかで折り合いを付けられたら…そんなことを思っていました。
信仰歴の長い人から見たら、なんてことを考えているんだ、と思われたかもしれません。しかし、当時の私は、自分がLGBTの罪を捨てることは、それくらい有り得ないことだったのです。
性と出会い、強烈に心を奪われ、学生の時はそのことを夢見て、社会人になって全身脱毛に何百万というお金をかけ、針脱毛の痛みに耐え、少しずつ、膨大な時間を掛けて、理想の自分に近づいていった。こういったこと、これからどう生きたいのかを、全て親にもカミングアウトした。その上で何百万というお金も掛け整形手術も受け、理想の容姿も手に入れることができた。
有難いことに体型にも恵まれていた。高すぎない身長、やせ型、色白。周りの人でも、顔は女性のようなのに、肩幅がゴツくてかなり損をしている人もいる。だからこの魂に見合った良い体を授けてくれた親に感謝していました。
さらにその上、30歳を過ぎても20代に見える若さを保てている。それも奇跡だと思いました。これら全ての事実を、どう考える?「許可されている」としか思えないじゃないか。
それだけに、捨てることは、どうしても受け入れられませんでした。
ある時、私は自分の姿を鏡で見ながら「有り得ない…」と、思わず口にしたことを、今でもはっきりと覚えています。
ただ、現実問題として、じゃあこの先、自分の生きたいように生きたところで、自分がやりたかったことが出来るとは思えませんでした。
もう10何年と、皮膚病が治らなかったのに、この先に突然治るとも思えませんでした。
それに、このコロナパンデミックという事が起こった時点で、私がやりたかったことに対する裁きにもなっていました。
このコロナ禍によって、いわゆる「俗的なこと」の多くが裁かれました。(風俗、お酒、夜遊び的なこと全般、細かなところではナンパ等、そういった類のこと)
そういう意味では、捨てやすい状況ではあると思いました。
とは言っても、どんなに考えても、この生き方以外に、自分が幸せだと思うことが、何も無い。
何故なら、それが、私の全てだったから。
キャプテン翼の翼くんからサッカーを取り上げたら、イチロー選手から野球を取り上げたら、何も残らないだろう。と思うように…
決断が出来た、大きな理由としては、「このままでは、もう御言葉について行けないだろう」というのがありました。
それに、去年1年は湿疹の状態も悪く、何も活動できていない。だから実質的に、今の自分の生活が変わる訳じゃなかった。というのも大きかった。
そしてもう1つは、神様だから。
「私が想像もつかないような、今の私が思っていることが塵あくただと思えるようなものを、きっと私に与えてくださるはずだ」と思えたことでした。
「本当お願いしますよ、神様…」窓の外を見つめながらそうつぶやきました。
そして私は、長かった髪の毛を切りました。ウィッグでは満足できず、地毛にこだわっていたので、髪はかなり長い状態でした。
私にとって、髪を切ることが「捨てる」という決断でした。再びここまで長くするまでには、2~3年くらいは掛かるからです。退路を断ったに等しい行為でした。
それからほどなくして、今度は「LGBTに関連する物」も、全て捨てていきました。
片づけをしながら、断腸の思いとは、まさにこの事だなと思いました。
こういう訳で、自分が想像していたよりも、早く、その時は訪れました。
今から振り返ってみると、
人間が最も捨てにくいような巨大な罪であったからこそ、「捨てられるように」というお導きが、色々なところにあったのだな、と思いました。
「あれがあったから、あれもこうだったから、あれもああだったから、捨てられたというのがあるよな~、と。」逆に言うと、あれがああじゃなかったら、果たして自分は捨てられていただろうか?と思うことが、いくつもあるのです。
あれだけ固執していたLGBTを捨てられたのは、自分でも不思議な感覚でした。
神様は、絶対に捨てられない罪を目の前に差し出して、「それを捨てなさい」とは言わないのだな、と思いました!