御言葉内では、最初の半年間は、無条件で神様は愛してくださる。
何かもの凄い恵みを受けたり、霊的なものを受けられたり、祈りを叶えてもらったり、ということを通して、神様の存在と愛を示され、その人が神様を愛してくれるようにと導いて行かれる。とお話されています。
しかし私の信仰生活というのは、私のこれまで抱え過ぎていた罪の多さと重さ故にであると思いますが、何かもの凄い恵みを受けたり、霊的なものを受けたり、ということは無く、
信仰を持つ以前の人生の中で、そして有料記事を購入するようになってからは、「裁き」という形で神様の存在をはっきりと示され、または経済的に回復してくださったり、御言葉内で語られることを通して、「神様は存在していらっしゃる」と確信している状態でした。
確かに言えることは、私の信仰生活は、御言葉内で言われている信仰者の生活とは、大きくかけ離れているということです。
または「練達」という言葉があります。聖書にも、このように書かれてあります。
ヘブライ人への手紙:12章5~6節
「主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」神様が義人を御言葉に呼ばれる理由は、ペットのように可愛がる為でもなく、ただ一方的に祝福を与えて幸せにする為でもなく、御心を成してもらう為、千年王国(地上天国)をこの地上につくるという神様の御心の為であり、
神様は導き育て、義人は成長し御心を成し、その過程や結果において神様が祝福してくださる。そういうギブアンドテイクの関係なのだと、御言葉で伝えられています。
しかし「練達」とは諸刃の剣のような性質があり、厳しく鍛えると、信仰を失ってしまい神様から離れてしまう可能性もある。それだと本末転倒となってしまいます。
そういう事情から考えると、私のような状態とはある種、理想的な状態にあったのではないかと振り返ってみて思いました。
「退路が無い」
→ せっかく断腸の想いでLGBTの罪を捨てたのに、辛い状況が長く続いたり、なかなか祝福を受けられなかったとしても、「御言葉を聞くのやめます」とはまずならない。人生の全てだったものを捨て、それで世の中に戻って、一体何をするというのか?という状態です。幸せになんかなれる訳がありません。
「他のものに目を奪われない」
→ もし仮に、イチロー選手が野球を捨てたとして、他のものに目を奪われるイメージは湧きません。それくらい野球が好きだったからです。もしもイチロー選手が野球を捨て、神様を知ったら、「あとの人生は神様の為に生きるだけだ」と考え、行ったことでしょう。
そういうタイプの人は、余程のことがあっても、それでも神様から離れない。そして、神様の御心を成そうとしてくれる。
私の信仰生活がどういう理由でこうなっていたのか、自分自身にははっきりと分かりません。いずれにしても、私のこれまでの人生や、御言葉に従うということが十分に出来ていないが故に、そうなっていたことであります。
その為、これからの私の信仰生活を事細かに書いてしまうと、神様のことや信仰生活を誤解されてしまう恐れがある為、それは御心に適ったことではないと思いました。なのでこの記事以降に関しましては、内容を抜粋して、書くべき内容を書くべき形で、お伝えしていければと思います!