思い立ったが吉日
早速、自宅から最も近い書店へと向かい、「聖書」を購入してきた。
それから、聖書を読み進める日々が続き、約2000ページ全て読み終えるには、3ヶ月ほどの時を要した。
…私はこれまで、読書が好きな人間の1人として、世の中にある書物には、小難しいものも含め数多く触れてきたという自負はある。
それに、本好きが高じて、自分で小説を書いたりしてみたこともあった。
だからこそ分かったことで、これは口にするのも恐ろしい事実なのだが、
思ったことを、そのまま口にしてみよう。
「この世の中の100人の文豪、100人の仙人が束になったとしても、聖書の内容は、到底書くことはできないだろう」
結論から言うと、全然分からなかった。
清々しいほどに。
ただそれは、聖書の内容が意味不明だからではなく、読む側の読解力が圧倒的に不足しているから という理由に起因していることだけは、感じ取れた。
聖書には、山ほど「聖書の解説本」というものが売られている。その意味が分かった。
なぜならば、それほど奥深い書物だからである。
例えば私のようなものが、
なにか意味あり気に、どうとでも取れるような、深そうな文章を書き並べたとしても、
私より賢い人が見れば、「この文章には何の意味もない、何の奥深さもない」と、看破されてしまうことになるでしょう。
しかし聖書という書物は、何十億人の人間が束になっても、それが起きないのである。
聖書の内容自体もさることながら、
聖書の著者の、心の清さのようなもの、文章の表現技法は、一体どこから来ているのだろうか?と思った。
仮に私が、この世の中で1000年生きたとして、
人々が舌を巻き、あごが外れ、腰を抜かし、お尻が浮くくらいの、深い「悟り」を得る為に、
聖人になる為の精神修行・肉体修行・苦行を、何百年と積み、
この世界の万物を知り尽くす為の勉学を、何百年と積み、
さらにそれを最も優れた文学として文章化する為に、ありとあらゆる作家から表現技法を学びつくしたとしても、
「生涯私は、このような文章を書くことはできないだろう」と思った。
分からない。ということが「分かった」のは、
これまで様々な本を読んで来たことに加え、
曲がりなりにもこの50年間、酸いも甘いも、様々な人生経験を積んできた。という部分も、あったように思う。
ただそれよりも、
なにか漠然と「正しい生き方」のようなものを求めていたからこそ、聖書の内容に心通じるものがあった。それが、最も重要なことだったのではないか と思った。
例えば、「詐欺師になる為の完全マニュアル」という本があったとして、
善人がそれを読んでも、全く心に響かないけれど、
悪人がそれを読んだら、「俺が求めていたものはこれだ」 と心に響いたのと、同じように。
今の私の心の状態が、聖書を読むことに適していて、ちょうど適していた時に、聖書に出会った。
なにか、不思議な "導き" のようなものを感じた。
確かに、内容自体は、大半が分からなかった。
しかし、「これだけあらゆる本を読んできた自分が、こんなにも分からなかった」
そこに、聖書の "果てしない奥深さ" のようなものを感じたのだ。
灯台下暗しとは、まさにこのことで、
「何でこれだけ色んな本に手を伸ばしていながら、今まで聖書という書物に手を伸ばさなかったのだろうか?」と、自分でも不思議に思うくらいだ。
本好きの端くれとして、
「聖書は世界一の圧倒的ベストセラーだから、どういう書物なのか、一体どんなことが書かれているのか?一度は読んでみようかな」と読んでいたとしても、何ら不思議ではなかった。
まるで、これまで封印されていて、今、その封印が解かれたみたいだった。
(第12話へ続く)