(うん?足に何かが…)
「おじさん、ボールとって!」
「あ、あぁ… 危ないから、急に道路に飛び出したりしたらいかんぞ。」
「うん。ありがとう!」 少年は風のように去っていった。
おじさん…か。そういえば初めて言われたかもな。「おじさん」と。
私にもかつて、あの少年のような頃があり、彼と同じようにこの街を無邪気に走り回っていた。
しかしそれが、それほど遠い昔のことのようには感じない。
少年時代から、自分がおじさんと呼ばれるようになるまで、
そう遠い道のりではなかったように思う…
私は実年齢より若く見られるというのもあるが、40代は丸々 "おひとり様ライフ" を満喫していたこともあって、人付き合いはほとんど無かった。
その為この歳になって、初めて「おじさん」と呼ばれることを体験した。
それにしても、初めておじさんと呼ばれてみて、確かにショックではあったが、それと同時に少しばかり感慨深いようなところも… ‥
「…努さん?」「おそば、茹ですぎじゃありませんか?だいぶ時間が経ってますけど…」
「はっ、いかん。」「皆さん申し訳ありません。今から作り直します。」
しまった。最近は物思いにふけることが多くなったから、仕事中は気を付けないと…
「珍しいですね。努さんがそんな些細なミスをするなんて。なにか考え事でもしていたんですか?」
「あ、えぇ… 今年、私も50という歳になりまして。50歳といったら、ひとつの節目じゃないですか。それで色々と思うこともありまして…」
「なぁんだ、そういうことだったんですか~。私は50になった時なんて、なんにも考えてませんでしたよ。気にしすぎたらダメですよ!」
「そうですね。気にしすぎは、良くないですよね…」
悪い方に考えるくらいだったら考えるなと、心配して言ってくれている意味だとは思うが…
しかしそれでも人は、やはり考えるべきなんじゃないか?
考えないで、考えないで、それで人生の終わり際に立った時、
その人は何を思うだろうか?
風のように現れて、ただ風のように過ぎ去る
"いのち" とは、そんなに軽いものなのだろうか?
なにか、自分がこの世界に生まれてきた、生きているという奇跡を、蔑ろにしているような気がする。
なにか「考えること」こそが、いのちに対する "敬意" のようなものであるように思う。
だから私は、それでも考えて、生きたいと思った。
マルクス・アウレリウスは言った。
「怖れるべきは死ではない。真に生きていないことをこそ怖れよ」
私が今を、真に生きられているかは分からないが、
今までの私は、真に生きていなかったことだけは分かった。
真に生きるとは何だろうか?
具体的には、それが何かは分からない。
ただ、
少しずつ、その答えに近づいている気がした…
(第15話へ続く)