私はこの先、あと何十年、生きられるだろうか?
いや、あと何年、もしかしたらあと何ヶ月かもしれない。自分に残された時間は、誰にも分からない。
私の時は、限られている。
過ぎゆく日々の中、聖書を読んでいて思った。
いくら情報拡散しても響かない 世の中は変わる兆しがない
自分に出来るのは、「祈る」ことくらいだ、と。
子どもの頃、母が自動車事故で、緊急搬送された。
私は仕事を途中にして駆けつけた父と一緒に、病院に向かった。担当医からは、「助かる可能性は五分五分です」と告げられた。
手術室の前で、母の手術結果を待った。
親戚の人達も来ていて、皆神妙な面持ちで、母の手術の結果を待っていた。
その時、母のお姉さんもいて、彼女は長椅子に座り、両手を顔の前に組んでいた。時折「妹が助かりますように」という言葉を口にしていたように思う。
子どもだった僕も、母のお姉さんの姿を見て、真似をした。
お母ちゃんが助かりますように と、心に何度も思った。
"見えない何か" に向かって、願いを注いでいた。
それは「お祈り」と呼ばれる行為だった。
その結果、母の手術は無事に成功し、家族と親戚一同はほっと胸を撫でおろした。
そして再び母は、元気に生活ができるようになったのだ。
もし、この世界が "何者か" によって見られているのなら、
もしも80億人の世界中の人達が、心を1つにして世界の平和を祈るなら、
その祈りを聞いて、叶えてくださらない なんてことがあるだろうか。
この世界を創造された存在が、その光景を目にしたら、なにを思われるだろう?
全世界の人々が、世界を創造した "見えない自分の存在" を理解し、その上さらに、清らかな心で世界の平和を祈っているのだ。
それは、なんと美しい光景ではないだろうか。 なんと感動的な姿であろうか。
涙なしでは見られないはずではないか。きっと、世界を創造された方も、そう思っておられるに違いない。
そんな想像をしただけで、自分まで、目に涙がこぼれた。
…涙をぬぐい、顔を上げ、
空を見渡した。
この世界を、誰かが見てくれているかもしれない そう思ったら、「祈ってみよう」と思えた。
「祈り」とは、気休めでも、無為でもなく、
希望であり、確かな可能性だ、と思えた。
それが、今の自分に出来ることの最善だ。と思えた。
現実に、多くの人がSNSで熱心に情報発信しているが、
それによって世の中が良くなっているどころか、現状維持にさえなっておらず、逆に悪くなっている というのが実状だ。
であるならば、
「この世界を、誰かが見てくれているかもしれない」という可能性に賭けてみるのは、
理に適ったことでさえ、あると思えた。
私は両の手を組み、力を込めた。
「どうか神様、世の中が良くなっていきますように。この世の中から悪人がいなくなりますように」
この日見た夕暮れ時の空が、人生で一番美しい空に感じた。
(第19話へ続く)