ある日、ふと、思ったことがありました。
「自分の脳って、なにかこう、100%自分のものじゃないような、2%くらいは、自分のものじゃない気がする」と。
例えば、日々の自分というのは、微妙に違っていて、
「あぁ、なんか今日の自分やけにダメだな」とか、"日々の自分の違い"というものに、根本的な疑問を抱き、何故自分なのに、毎日「同じ感じ」じゃないんだろう?と、
最初はそこに、違和感を覚えたのがきっかけでした。
思えば私は、「もう1人の自分がいる」というか、もっと正確に言えば「自分は危ない一面を持っている」というものがありました。
例えば人の多い街中を歩いている時に、「GTA」という(バーチャルの街中で好き放題暴れ回れることができる、有害図書に指定されている)ゲームのことを思い出して、自分がいきなり街中で暴れ回るような、そんなシーンをふと想像してしまう時があったとして、でも現実にはそんなことはしない。
理性が働いて、やってはいけないことだ、そんなことしてどうするんだ、誰も得しないし全員が損するだけじゃないか。そう思うから、人はそんなことはやらない。
でも自分は、「そこをあえて」「でも逆に」とか、考えてしまうような「恐ろしい自分」が「たまに」いて、「違うそうじゃない」「そんなことをしたら大変なことになる」と、二重に、理性で抑制しなければいけないような時があるのです。
それが顕著なのが「高所」にいる時で、
例えば自分はマンションの5階にいます。手すりはそんなに高くなくて、乗り越えて飛び降りようと思えば物理的にそれは可能です。という状況だったとして、
普通なら、飛び降りたら痛い思いをするし、大怪我をするし、下手したら死ぬぞと理性が分かるから、誰もそんなことはしない。
でも自分は「そこをあえて」「でも逆に」みたいに考えてしまう、「何%かの自分」がいて、「おい、お前マジでやめろよ」と、「理性」と「何%かの自分」が戦って、理性が何とか抑え込むような、本当に飛び降りてしまいかねない自分、がいるのが恐ろしいのです。
ということもあって、半分高所恐怖症のようなところがあります。
あとは、これまたギャンブルでも、似たような経験を何度もしました。
例えば1週間前にこのレースはこの馬だろうと、ある程度見立てがついているレースがあったとして、そういう混ざり気のない感覚というのは、結構当たっている場合が多いのです。
でも実際は当日、別な馬が良いと思ってしまい、その馬から買うと、大抵外れるのです。
後から振り返ってみると「え、何で自分あのレースで、あの馬から買ったの?」と客観的に自分を見ても理解不能な予想をしていることが、よくあります。
面白いことに競馬というのは、同じ自分が予想しても「当日の状態」によって、全然違う予想になってしまうのです。お金に余裕がない時ほど考え方が良くなく予想が裏目裏目に出たり、ふとした「何かのファクター」が混ざっただけでも、予想がガラリと変わってしまうことがある。
こういう自分の中にある「ブレ」が無ければ、もっと年間の収支は良いはずなのに。「悪魔の囁き」ではありませんが、「それ」を排除して、どこまでも客観的にフラットに予想できたらいいのに、というジレンマは、常に抱えていました。
そういった様々なことから、なにかこう「自分の脳は、100%自分のものではない」的な感覚を持つようになったのでした。
恐ろしい「何か」を制御しないといけない時がある。
「その正体も何なのだろう」と、漠然と思っていたようなところがありました。