「なにかこの世界とは、偶然によって出来たらしい」
誰からともなくそう教わり、よく分からないまま「社会」というレールの上に乗り、
学校に通い、就職し、振り返ってみればあっという間の道のりで、気付いたら自分も高齢者と呼ばれていた。
でも、何か「変」だと思いませんでしょうか?
そもそも「なぜ私は生きているの?」「死んだ後はどうなるの?」
なにも分からないまま生き、なにも分からないまま死んでいく…
という、この「違和感」
誰しも、一度くらいは考えたことがあるはずです。「何故自分は生きているのだろう?」と。
しかし、その答えが分からないから、疑問を置き去りにし、いつの間にか「社会」に取り込まれ、考えなくなってしまう。
人間にとって最も重要なテーマ「人間は何故生きているのか?」「死んだ後はどうなるのか?」を。
人間にとっての大いなる疑問「何故、人は存在しているのか?」
普通に考えたら、創造主が存在する訳です。
何もないのに、様々な何かが、次から次へと出てくる訳がないのです。
この世界は「偶然によって出来た」と考えるより、「何者かによって作られた」と考える方が、遥かに理に適っている
人間も、この世界に存在するものを使って、自分達の手で様々なものを作ります。
犬小屋、犬のおもちゃ、人間が提供する犬の食べ物、ドッグラン 等々
犬からすると、野良犬時代では考えられなかったものを、人間なら次から次へと提供することができます。しかし人間がそれらを作らなかったら、そういったものも当然存在していません。
これと同じように、この世界も、人間という存在を超越した「生命を生み出せる方」が存在していて、
その方によって、この世界が作られ、全てのバランスが整いながら毎日が運行され、様々な生命が次々と誕生している。つまり「神様」という存在です。
それで、この世界が存在している全ての説明がつきます。
というより、創造主の否定を前提とした説の方が、無理があるのです。
何故なら「じゃあそれはどこから来ているんですか?」という問いに、全て詰まるからです。
ビッグバン理論も矛盾だらけであり、「この世界は偶然によって出来た」という根拠は、あまりにも薄弱です。
これらの事実から、確かに言えることは、
人は、何故生まれ、この世界が存在し、死んだ後はどうなるのか分からない以上、
「神様」という存在を考える価値は、十分過ぎるほど有る。ということです。
「十分過ぎるほど」です。
どうか全ての方に「この世界には神様が存在しているかもしれない」という想起が生まれてくださり、
それがいつか、はっきりと確信に変わる日が訪れてくださいますことを、心よりお祈りいたします。