日本と海外の「言葉と文化の違い」について色々と紹介されている、YouTubeチャンネルを見ていた時がありました。
「この国の事情や文化はこういう感じで、それに比べて日本のこういうところが~」と言った感じで、
それぞれの国の、言葉や、文化や、考え方や、価値観などを知れることが面白く、
私もそのYouTubeチャンネルから色々なことを教えてもらいました。
今の時代は自らが海外に行って直接経験しなくとも、インターネットを通して、世界中の人の話を聞いたりすることができるので、
それって凄いことだよな~と、改めて実感しています。
色々な国を経験されている方の話を聞いて思うことは、やはりそういった経験をされているだけに、「視野が広く、寛容で、理解しようとしてくれるし、決めつけない」といった印象を抱きました。
私自身が海外に行ったことがなく、日本しか知らないだけに、余計にそう感じたのかもしれません。
「視野が広く、寛容で、理解しようとしてくれるし、決めつけない」
当然こういった人は、人から嫌われにくく、
「視野が狭く、寛容でなく、理解しようとしてくれないし、決めつける」
逆にこういった人ほど、人から嫌われるというのは、確かなことであると思います。
私は、様々な海外の文化や事情を知り、それを通して日本の良さも教えてもらい、いかに自分が「わずかな価値観の中」で生きているのかを知りました。
結局のところは、色々なことを知るほど、色々なことを経験するほど、人は「謙虚」になっていくのだと思いました。
知れば知るほど、知らなかった部分が見えてくる。本当のことが見えてくる。
果ては無い、自分は知らないことだらけだと、認めざるを得ない。謙虚にならざるを得ない訳です。
コリントの信徒への手紙 一:8章2節
自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
自分が無知であるほど、自分の基準で判断したら、おおよその事を見誤ってしまいます。
それは、この世の中が嘘だらけだからです。
かといって人は、誰の話に耳を貸すかもひっくるめて、結局全てを自分の基準で判断するしかありません。
だからこそ私は「こうかもしれないし、こうじゃないかもしれない」と、常に決めつけずに、生きて来ました。
それによって、たとえその時の判断は間違っていたとしても、数年後とかに「あ、やっぱりこっちが正しかったんだ」と、軌道修正をすることができました。
ある意味、自分の基準を設けずに、思考を柔軟にして生きてきました。
同じ日本で生まれ育った人でも、人によって考え方や価値観が全く異なり、相手のことを理解することは難しく、それが海外の人ともなれば尚更であります。
だからこそ、
「自分はそれが普通だけど、相手にとってはそれが普通じゃないかもしれない」
「あの人がこうなのは何でだろう?こういう可能性もあるし、ああいう可能性もある」
といった、
「決めつけないで、あらゆる可能性を考える」ということは、
人間関係においても、引いては世の中を生きていく上においても、非常に重要な考えであると思いました。