私達人間は、分からないことだらけの中で生きていても、確かなことはいくつも知っています。
1つは「生まれた以上は、必ず死が来る」ということ。
もう少し具体的な言い方をすれば、「全ての人間は、生まれてから死を迎えるまで、この世界という中の住人である。」ということです。
今の世の中では、生まれついてから「社会」というシステムの中に組み込まれ、学校に通って、大人になって、仕事や結婚などをして、老後の人生となり、死を迎える。
という人生観です。
人間とは、ただそれだけの存在なのでしょうか?
それをする為に、この世界に生まれついたのでしょうか?
何か違う気がする。
もっと、なにかこう「意味のようなものがあるはずだ」と、
具体的にそれが何かは分からないながらも、そういう気はするし、そうであって欲しいと、心のどこかでは願っている。
しかし、そういう気持ちが芽生えても、社会というシステムの中で生きている内に、いつの間にか考えることも無くなり、死という名のゴールに向かって毎日を歩んでいる。
明日を生きることさえ難しい現代社会において、明日のこと、生活のことを考えて生きることも重要ではありますが、
しかしそれ以前に、「なぜ私達は生きてるの?」「死んだ後はどうなるの?」このことについて、もっと考えてみるべきではないでしょうか。
考えても確かな答えは分からないかもしれない。しかし分からない中でも、色々と「考察」することは可能です。
例えば「死んだ後はどうなるか分からない」
しかし考えられ得るパターンとしては、「この世界で生きたことが、なにか次の世界のようなものに反映される」「この世界で生きたことは、死んだ後は関係が無い」
このどちらかになる。
そして「分からない」以上は、反映されないかもしれないし、反映される可能性がある。ということ。
反映されないのであれば、この可能性についてそれ以上特に考える必要はありません。
問題は「反映される可能性がある」という方です。
「死んだ後はどうなるか分からない」「この世界で生きたことが死後の世界で反映される可能性がある」
であるならば、『この世界でどう生きるか』が、人間のテーマとなってくるのではないでしょうか。
"世界" は、私達人間に「善いことを行うこと」「悪いことを行うこと」どちらを望んでいるのか?
それはきっと、「善いことを行うこと」であるように思います。
何故なら、この世界には「因果応報」「自業自得」「身から出た錆」「天罰がくだる」「自分で蒔いた種」
こういった言葉がたくさん存在するように、悪いことをしたら悪いことが返ってきやすい。ということを、私達は知っています。
証③ 「因果応報」は確かに存在していると思う、これまでの私の人生
さらに人間には、不思議なことに「罪悪感」という機能まで備わっています。
証⑧ 人間には「罪悪感」があり、そこから解放されると気持ちが楽になる
そこには (悪を行ってはいけない)(悪から立ち返れ) という、メッセージのようなものを感じます。
その一方で、「善い生き方」をして、なにか本質的な部分でデメリットのようなものがありますでしょうか?
人に喜んでもらえる、感謝される、称賛される
自分自身も喜びに満ち、心もどこまでも晴れやかです。
こういった事実から、「世界は人間に悪いことをすることを提唱していない。むしろ善い行いをすることが奨励されている」
という、"世界の意志" のようなものを感じることが出来ます。
私達は「生まれてから死を迎えるまで、この世界という中の住人である。」この事実からは誰も逃れることはできない。
そしてこの世界とは、何者かによって創造されている。少なくともその可能性が高い。
この世界は「偶然によって出来た」と考えるより、「何者かによって作られた」と考える方が、遥かに理に適っている
この世界の中にあるバランスと、この世界自体のバランスと、創造者の存在
創造主が存在するのであれば、人間が創造主の存在に「気付いたら」 創造主は嬉しいはずであり、さらに「信じたら」「求めたら」もっと嬉しいはずであります!
世界が望んでいる生き方をする。
これこそが、「人間という生命が考えられ得る、最も間違いのない生き方である」と、確かに言えるのではないでしょうか。
そして、世界が望む生き方をしている人に、ある時世界が、驚くべき真実をもたらしてくれる。
私はそのように確信しています。
どうか全ての人が社会というシステムから一歩距離を置き、人間という生命にとって最も重要な疑問と向き合い、それによって「真実」に出会う方がたくさん現れてくださいますことを、心よりお祈りいたします。